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月例会の日帰り旅行も9回を数えるようになり、今回は季節柄、少し歩いてみようと古代ロマンの飛鳥路を選び、遺跡の宝庫「明日香村」を散策する事になった。 梅雨のシ−ズンまでにと5月末の31日を選んだが、日が近づくにつれ、傘マ−クの天気予報、とうとう当日までに九州、中国、四国地方が梅雨入り宣言が出でしまった。当日も雨模様の天気予報が出でいたが、前日の電話で雨を覚悟で行こうと申し合わせ、雨具の用意をぬかり無くして予定通り出発した。 早朝の新快速はラッシュと重なり、満員電車の中、お互いを確認し、大阪駅に着いた。環状線経由、天王寺下車、雑踏の中を急いで、近鉄阿部野橋駅へ、運良く8・20発の急行に乗れ、飛鳥駅には9・04に着いた。
心配された天気、どう間違ったのか、雲が切れ始め、青空が覗くようなよい天気に、雨傘を日笠にするかと冗談を云いながら「高松塚古墳」を目指して歩き始めた。まず隣にある「高松塚壁画館」に入り、飛鳥の秘宝を再現した模写で飛鳥美人と対面、古代の香り高い文化に触れる事が出来た。 「高松塚古墳」は被われていて、外からただ場所を見るだけで、来た記念に皆で写真を撮った。
山合いの小道を行き、些か不親切な表示板に少し迷ったが、宮内庁管理の「文武天皇陵」に出、周囲を廻り、元来た道を引き返し、「吉備姫王墓(猿石)」、「鬼の雪隠」・「俎板」、「亀石」と廻り、中央公民館の横を抜け、聖徳太子誕生所「橘寺」に、当寺は、橘の宮と云う別宮があった処で、太子は橘豊日命(後の用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地でお生まれになり厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。
住職によると、当時の別宮は広く、別宮内を散歩中、戻られず馬小屋に掛け込み太子をお生になられたそうです、と話してくれた。
日本書紀によると、田道間守が中国から持ち帰った橘、と黒砂糖を薬として用いたので、蜜柑・薬・菓子の祖神として崇め祭られるようになったらしく、菓子屋に橘屋の屋号や橘のマ−クが多く用いられるのは、この縁によるものである。 土地の面積を大化改新で一畝(36坪・約100平方M)と定め、面積の基準とした「蓮華塚」、別名畝割塚、そのすぐ隣にある、「二面石」、飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表しものと云われている。その善の顔をよく見ていると、偶然かどうか、大阪万博の太陽の塔にある岡本太郎による顔と何処か似ている感じがした。 住職の勧めで、「往生院」の著名な画家による華の天井画260点、まるで華の浄土の様相を呈しているのを大広間で見、一時の休憩でくつろぎ、橘寺をあとにした。 時間も丁度お昼前になり、朝早く出たせいかお腹も減り、昼食をする事になった。明日香村役場を通り、街道の食堂に入った。
腹ごしらえも出来、僅かのビ−ルだったが気分もよく、特別史跡「石舞台古墳」に向かった。古墳は横穴式石室を持つ方形墳で、7世紀初めと推定、既に封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっていた、写真やテレビで見るのと違い流石に迫力のある石造物であった。
最近発掘された「亀形石造物」、ここでも入場料が必要で、丁度、横にある小高い場所から、まともには見えないが、周囲が見れ雰囲気を感じたので、入るのを止め、次ぎの「飛鳥寺」に行った。 「飛鳥寺」は西暦588年蘇我馬子が発願し、596年創建された日本最古の寺で、本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)も鞍作鳥仏師による日本最古の仏像である。
お寺を出た午後3時頃、空模様が怪しく、今にも降り出しそうな気配。 バスの途中からポツポツし始め、近鉄橿原神宮駅に着くと大粒の雨になった。 |